昭和52年9月26日の日本下水道新聞には、同年に開かれた第14回日本下水道協会中国・四国支部総会における久保赳氏(日本下水道事業団副理事長)の講演「下水道事業運営自立への道」について、その内容を紹介しています。
わが国におきましても、立遅れた下水道整備を進めることは、国、地方公共団体および、その地域住民の方々が一体となって協力していかなければならない大事業であることは、パリの下水道とまったく同じであろうかと思います。
わが国で形式的にも実質的にもそのような態勢がとられたのは、昭和三十八年度を初年度とする第一次下水道整備五ヵ年計画の閣議決定です。この第一次五ヵ年計画は、その根拠法が「生活環境施設整備緊急措置法」ですから、同法に基づいて下水道終末処理場、し尿処理およびごみ処理の四事業の五ヵ年計画が、それぞれ閣議で決定されたのです。その意味からいえば、昭和三十八年という年は、国と地方公共団体が一体となって下水道を進めるという体系ができ上がった年ということがいえましょう。
したがって、その意味からいえば、昭和三十八年という年は、いわば「下水道元年」といってもいいのではないだろうか――と思うのです。その昭和三十年代は、どういう時期であったかということを考えてみますと、数字が示しているように、昭和三十年代は、わが国の産業構造と、その産業に対する就業人口構成に大きな変ぼうがはじまった時期です。いわゆる第一次産業から第二次、第三次産業へと人口の大幅移動がはじまり、入口は農村部から都市部へと非常な勢いで移動がはじまったのです。(中略)
わずか二十年ぐらいの間に、市街地人口が三千三百万人であったものが、それに三千百万人増加して六千四百万人と約二倍になったのですから、都市化現象がいかに急速に、激しく進行したかということがわかるわけです。(中略)
日本水道新聞社は2024年で創業70周年を迎えました。本連載では、約70年間にわたる当社の報道について、日本水道新聞、日本下水道新聞の過去の紙面を通じて、印象的な出来事を回顧していきます。70周年という節目を迎えるに当たり、創刊号からこれまでの紙面を振り返ることで、読者の皆さまに当社の報道を通じた上下水道史を伝えるとともに、われわれも歴史の教訓から学び、次の10年に向けて、新たな一歩を踏み出すきっかけとしたいと考えています。
第10回 公害国会から拍車 昭和38年が下水道元年
昭和52年_09月26日 日本下水道新聞_第0425号
昭和52年_10月03日 日本下水道新聞_第0426号
昭和52年_10月17日 日本下水道新聞_第0428号
昭和52年_10月24日 日本下水道新聞_第0429号
昭和52年_11月14日 日本下水道新聞_第0431号
昭和52年_11月21日 日本下水道新聞_第0432号
昭和52年_11月28日 日本下水道新聞_第0433号
人口がそうですから、いわゆる市街地の面積においても、昭和三十年には全国で三千四百平方㌔㍍の市街地でしたが、二十年後の昭和五十年には約五千平方㌔㍍の市街地が増加をして、八千四百九十平方㌔㍍と二倍以上の市街地面積にふくれ上がっている。(中略)
その間、都市部はそれだけの人口を受け入れるだけの準備なしに比較的簡単に受け入れたために、社会的に大きなヒズミを残したわけです。
下水道対策の上から例をとってみますと、都市周辺の田んぼは宅地になるので、それだけ浸水する区域が拡大するとか、それからまた化学肥料の多用と都市部の人口急増に起因して、し尿対策が爆発的に要請されるようになったのです。
さらにまた、都市的活動の増加による深刻な水質汚濁現象が、時を同じくして次々と解決を迫ってくるという時期であったわけです。このように、大きな社会変革の最中に、第一次五ヵ年計画が終末処理場を含めて四千四百億円の総事業費でスタートを切ったわけです。(中略)
昭和四十二年から第二次五ヵ年計画=九千三百億円に移行したのですが、根拠法も下水道整備緊急措置法となり、管きょと終末処理場を一本化した事業実施計画となり少しづつ下水道整備本来のあり方に移行したのです。(中略)
昭和四十六年から第三次五ヵ年計画=二兆六千億円に移行したわけですが、その当時は、公共用水域の水質汚濁現象が大都市周辺の都市河川だけでなく、国土全般にジリジリと浸透してきたものが、顕在化してきた時代ではなかろうか。河川や湖沼あるいは海岸など至るところに顕在化してきまして昭和四十五年十二月には公害国会が開かれ、公害対策の一環として下水道対策が大きく取り上げられる方向が示されたのです。
昭和五十一年度からは、ご承知のように第四次五ヵ年計画として七兆五千億円が見込まれ、 環境対策としては、都市計画区域外の地域にも及ぶ広範な環境対策ということで、現在進行中であるのはご承知の通りです。
この第一次から第四次に至る間第一次五ヵ年計画が開始された昭和三十八年の処理人口が七百九万人であったものが、昭和五十一年末には二千八百四十六万人となっており、その間二千百三十七万人が処理人口として増加したのです。したがって、この数字から見ましても、明治以来、昭和三十八年まで百年間の下水道事業に対し、昭和三十八年以降わずか約十三年の短い間になされた下水道の成果は、約三倍の仕事をしたということになります。この点からいっても昭和三十八年は〝下水道元年〟といってもよかろうと思うのです。(中略)
下水道建設財源について、下水道元年と申しました昭和三十八年の状態を現在と比較すると、著しい改善がなされていると思いますが、(中略)昭和三十八年には、全体の総事業費のうち、わずかに一五%が国の補助金でした。それが昭和四十九、五十年と最近になりまして、だいたい二五%が国費の補助金ということになりましたから一〇%ほど増加したわけです。全体としては、このへんに大きな問題が残されているわけで(中略)
それから、次に、公共下水道事業の大きな特色の一つは、河川、道路等他の公共事業と比較しまして、際立って多額の維持管理費がかかることです。(原文ママ)
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