連載 水を伝える

日本水道新聞社は2024年で創業70周年を迎えました。本連載では、約70年間にわたる当社の報道について、日本水道新聞、日本下水道新聞の過去の紙面を通じて、印象的な出来事を回顧していきます。70周年という節目を迎えるに当たり、創刊号からこれまでの紙面を振り返ることで、読者の皆さまに当社の報道を通じた上下水道史を伝えるとともに、われわれも歴史の教訓から学び、次の10年に向けて、新たな一歩を踏み出すきっかけとしたいと考えています。

第23回 建設省下水道部20年 その軌道と成果

平成3年05月20日 日本下水道新聞_第1088号

2023年5月26日

昭和46年5月10日、建設省の下水道課が「部」に昇格しました。それから20年が経過した平成3年、これまでの足跡をどう見るか、初代下水道部長の久保赳氏(当時:日本下水道協会理事長)が振り返りました。

久保 (下水道行政二十年のポイントは)第一には、事業量の拡大と、その財源対策で具体的には補助率の引上げで、第二は執行体制の強化です。第三は国際交流です。
第一の事業量のほうは、先ほどいいましたように環境基準の類型指定が進行する過程であり、しかもなお環境庁ができ、建設省も下水道部ができて、下水道整備を飛躍的に伸ばさなくてはいけない時期でした。
事業費は総額二兆六千億円にはしたけれども、これをどういう財源構成にして、財源を調達していくかということが大問題でした。
私は最初から、この問題を解決するには国の負担分を増やさなければできないと思っておりました。国の補助率の引上げです。(中略)
何とかして補助率を上げようということで、引上げのためにずいぶんと時間と労力を費やしました。(中略)
私が下水道課長に就任したのは昭和三十八年ですが、将来のことを考えると、 補助率を全面的に上げる前提として淀川の水質汚濁対策の中心都市・京都市の下水道整備を補助率引上げの目玉にあげたのです。(中略)
昭和四十年度予算のときに、小山建設大臣のときでしたけれども、建設大臣と大蔵大臣との予算の最終折衝に京都市の補助率引き上げをお願いして実現してもらったのです。(中略)
次は、第二次五ヵ年計画に移行して根拠法が下水道整備緊急措置法になった機会に、公共下水道の補助率が大都市四分の一、京都市三分の一、一般都市三分の一であったのを、四十二年に一律十分の四に引き上げてもらいました。(中略)

四十三年には流域下水道だけ二分の一に引上げてもらいました。(中略)第三次計画二兆六千億円と事業費を大幅に大きくしたときに、関係者は補助率を上げるべきということでしたけれども、私は、その時期は近く必らずくるけれども、それまでの間は補助率が低くても事業量を確保してやる方が先だ、ということでしばらく待ってもらい、四十九年に補助率引き上げを実現させてもらいました。
これは、公共下水道は十分の六、処理場は三分の二、流域下水道は四分の三と大幅に上げてもらうことができました。(中略)
第二は執行体制の強化です。国が検討すべき措置としては下水道事業団でした。この事業団を実現する段階で建設大臣だったのが西村英一先生です。
西村大臣は一元化のときと事業団の設置という下水道行政の大事なとき二度、建設大臣をされました。(中略)最後には下水道事業センターとして発足することになりました。(中略)
しかし発足した当時から、これは別途強化しなければいけない、というつもりでした。四十七年に発足して、それを今後はどういう方法で強化するかということが問題点でした。
(中略)補助率の引き上げ、執行体制を事業センターから事業団にしたことは、大きな出来事だったと思います。
下水道事業団が将来のためにプラスになったと思われたのは経験技術の交流でした。
(中略)事業団では、そこに出向した技術者は机を並べて隣りは東京都、こちらは横浜、こちらは大阪からの出向者という職場となって、それぞれの都市の技術交流というか経験の交流は円滑にすすむのです。
これは非常に大きなプラスであったと思います。(中略)
第三番目は国際交流の面です。先ほど申しあげましたように昭和四十六年下水道部発足早々に、第二回の日米閣僚会議があり、そこで下水道の日米交流がはじまることになりましたけれども、それ以来アメリカと経験・技術交流をしたことは大きかったと思います。
その間に人も育ち、アメリカの情報・経験もそっくりもらい、わが国で役立つものは実施にすぐ移しながら進行しました。(原文ママ)

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