夏の減・断水現象が年中行事化したとも見られる中、オリンピックを目前としていたことから、昭和39年に政府は東京都の渇水対策に乗り出し、河野国務大臣の出動もあって荒川取水工事は短縮され、完成を迎えました。
日本水道新聞は昭和39年8月6、13、27日の3号にわたって、この動きを追っています。
東京都の水不足はその後ますます進展し、六日には小河内、村山、山口三貯水池の貯水量は七百万立方㍍を割る見通しが強くなった。このため臨時東京都渇水対策本部(本部長・東都知事)は四日、第三回目の会議を開き六日から危惧されていた四五%制限の第四次制限給水を実施することに踏み切った。(中略)
また四日の閣議でも東京都の水道対策がとりあげられ河野国務大臣の発言で今年と明年度の東京都の水道対策を早急に検討することになり、河野国務大臣と東都知事の会談が行なわれることになった。社会党も四日、広島市で行なわれた臨時中央執行委員会でこの問題をとりあげ、非常措置を要求することをきめているので政治問題として発展する気配が強い。(原文ママ)
閣議内に「緊急水利連絡会議」設置 会長に河野国務大臣
東京都の水不足問題は、あと数日後に「第五次制限給水」の非常事態をひかえて、十日の緊急会議及び十一日の閣議でようやく明確な見通しと対策をみるに至った。十日、河野国務大臣は厚生省など各関係機関を集めて、当面の緊急対策と恒久対策について協議するとともに、緊急水利協議会を設置することを議決し、翌十一日に閣議にかけ、緊急水利連絡会議を発足させることを決定した。これで東京都の水不足対策は一段落し、あとは今後の降雨状態を見守るばかりとなったようである。(原文ママ)
政府の責任を追及 衆院4時間も熱論
衆議院地方行政委員会と建設委員会は十一日午前十一時から東京都渇水対策合同審査会を開き、阪上安太郎委員(社)らが東京都の水不足の緊急対策および恒久対策等について政府および東京都の意向を質した。席上河野国務大臣は緊急対策については「十八日ごろまでは四次制限を続けるが、それ以後、荒川の通水する二十五日までは雨が降らなければ第五次制限もやむを得ない」と述べ、また来年度の対策としては利根川、荒川の緊急水利連絡会議を設けて、既得水利権を侵害しないことを建前に利用できるだけの水を取得したいと政府との方針を説明した。(原文ママ)
荒川から救いの水 都と公団の合作実る
東京都待望の荒川取水工事が完成、その通水式が二十五日午前八時四十分から、埼玉県北足立郡足立町の取水ゼキ工事現場と東村山浄水場導水ポンプ場で同時に行なわれた。
二十五日午前八時四十分の定刻、河野国務大臣、神田厚生大臣、白浜建設省政務次官、進藤水資源開発公団総裁らの手で四つの取水ゲートのスイッチが押されると、幅四㍍の重々しいゲートは関係者の見守る中を毎秒四十㌢㍍づつゆっくりと上っていく。二十日に締め切りを終わった荒川取水ゼキは満々と水をたたえ有効水位二㍍、流れは右岸の調整ゲートをあふれ、滝のような音をたて、荒川の水は打ち上げ花火と工事関係者のバンザイに送られて勢いよく導水路に吸い込まれていった。(原文ママ)
なお、この日開かれた日本水道協会の理事会の席上、国富忠寛理事長が正式に辞意を表明し、同理事会はこれを了承。10月に仙台市で開かれる総会に諮ることになりました。後任理事長は諸般の条件から、現東京都水道局長の小林重一氏を押す空気が強く、特別な事情がない限り、小林理事長が実現することがほぼ確定的となりました。
結局、10月に開かれた総会で予想通り、小林氏が日本水道協会の理事長に就任しました。小林氏はこの後、日本水道新聞社から「東京砂漠に雨が降る」を出版、この書籍には、当時の模様が克明に記されています。